salamx2の雑談

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カテゴリ:詩のこころ( 4 )

僕たちの家の空


僕は無数の階段を 青くのぼって行った
僕たちの家の空は
隣人の家の空とは違っていた
僕は 小麦の深さでうねる無数の階段を
空腹のまま のぼって行った

馬の白を追いかけて
一面の小麦畑のなかで ただ一本の道だけを見つめていた
白髪になった僕の父さんも その道を通って行ったのだ

僕は小麦畑をずっと たったひとりで歩いてきた
僕は父を見た
小麦を見た
なのに未だ言えずにいる「僕の馬だ」とは
僕はただ 馬の白を想って泣いたのだ
僕の馬は刈り取られた


アフマド=レザー・アフマディー(前田君江訳)現代イラン詩集より

青と黄金色と白。
この詩をとりまく色。青と小麦と白。

小麦の黄金色だけがたくましくざわざわと立ち上がってくる。
青と白は、すぐ目の前にあるようで掴みどころがない。

「青くのぼる」とは、なんと果てしないのだろう。
「白髪になった僕の父さん」の白も「馬」の白も哀しくも長い月日をかけて追い求め続けることができる希望のようにも思える。

広大な風景が目の前に広がりそうな詩ではあるけれど何かカッツンっとひっかかる…

そして最後には、グッサッと「僕の馬は 刈り取られた」とくる。

この表現、印象的であるけれどどこか馴染みがあるような…。そうです。アイコウさんも訳している「花壇にお嫁さんとお婿さんが生えていた」の作者でもあるのです。

この詩人は、現在もテヘランで精力的な創作活動を続けており、社会参加を一貫して否定し、モダニズムを志向した思潮は、現代詩の刷新運動の端緒ともなったようです。主体と客体、能動と受動が用意に入れ替わる倒錯したシュルレアスティックな世界感を得意としています。


ちなみに私はつい、「馬」の部分を「空」と置き換えて噛み締めてしまいます。

「僕たちの家」であっても、空は僕たちのものでもなく、まして僕のものでもない。
「僕たちの家の空」は、空の領域に線を引いているようでもありますが、常にそこにあるのに決して「僕の」ものにはならない「空」。。。。。

勝手すぎる解釈、お許し下され。
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by salamx2 | 2009-07-31 09:45 | 詩のこころ | Comments(0)

金曜日


静かな金曜日
見捨てられた金曜日
古い路地のように哀しい金曜日
病的で怠慢な考えが浮かぶ金曜日
冗談で有害なあくびのでる金曜日
期待もない金曜日
服従の金曜日

空虚な家
落胆した家
若者の混雑から扉を閉ざした家
暗闇とただの太陽のイメージの家
孤独と占いと疑念の家
カーテン・本・食器棚・絵だけの家


あぁ、なんて穏やかで傲慢に過ぎていったのだろう
わたしの人生 まるで見た事もない小川のように 
静寂なこの金曜日の中で見捨てられた
空虚なこの金曜日に落胆した
ああ、なんて穏やかで傲慢に満ちて過ぎていったのだ



フォルーグ・ファッロフザード(鈴木珠里訳)現代イラン詩集より



今日は、湿った風の強い金曜日。
いつからか土曜日の休日が定着しはじめた日本では、ほんの少し心躍る金曜日ではないでしょうか?
「日曜日の休日」は、今ではキリスト教圏以外でも広がっている習慣ですが、イスラム圏のイランでは、金曜日が休日です。そう、土曜日から平日がはじまるのです。

そして、金曜日はムスリムの集団礼拝の日でもあります。
そんな背景を心に留めて読み進めるとよりいっそう心を添うことができます。

「古い路地のように哀しい金曜日」
こんなふうに「曜日」をとらえた事がなかったものの、何か無意味に過ぎて行くような日曜日の夕暮れ時に感じる小さな焦りと自分への戒め、そしてこれでいいのだと安易に自分自身を受け入れる姿がさまざまと浮かんできます。

と、勝手に自分に引き寄せて感じてしまいますがこの詩の背景には「イランという国」の現実がじわりと滲み出ているように感じます。けっして、声高らかに激しく訴えているものではありませんが、冷静さと情熱が心に秘めている者にしかとらえられない確かな現実の描写があります。

「暗闇とただの太陽のイメージの家」などは、ぞくっとします。

この詩人のフォルーグは、自動車事故により32歳という若さでこの世をさった女流詩人で、家庭における倦怠感や孤独感などを女性らしい情感で表し次第に高い評価を得ていった方です。

さぁ、「金曜日」のはじまりです。

先週の金曜日に産経新聞の記事で、こちらの詩が一部引用されていたのでご紹介しますね。↓
【歴史の交差点】東京大学教授・山内昌之 見捨てられた金曜日
2009.7.3

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by salamx2 | 2009-07-10 11:09 | 詩のこころ | Comments(0)

住所

「友達のうちはどこ?」
 暁の頃、馬に乗った男が問うた
 空は静止し

 旅人は口に銜えた光の枝を砂の暗闇に委ね
 そして白楊の木を指差して言った

 「あの木の手前 神の眠りよりも翠色をした小路がある
 そこでは  愛が誠実の羽くらい蒼い

 成熟の向こうから現れたその小路の終わりまで行き
 そして孤独の花の方を向いて

 花のところまで二歩のところ
 地上の神話が永久に噴き出て居るところに居てごらん

 すると透明な畏れがお前を取り囲み
 誠実に流れる空間の中で さらさらという音が聞こえるだろう

 高い松の木にのぼって光の巣から
 ひな鳥を捕まえている子供が居るから

 その子に尋ねてごらん
 友だちのうちはどこ、と」


ソホラーブ・セペフリー(鈴木珠里訳)現代イラン詩集より

続けてセペフリーの詩のご紹介。
ひとつの物語の情景が浮かびやすい詩です。

登場人物は、「馬に乗った男」「口に光の枝を銜えた旅人」「ひな鳥を捕まえている子供」の3人。
「旅人」の言葉でほとんど成り立っている詩です。

「ともだちの家」にたどりつくまで必要とされるものが示唆されているように感じます。
旅人の指さす先は、ひんやりと美しい。

「白楊」は、ヤナギ科の木ですがポプラと同属で、マッチの芯などに使われている樹です。
その姿は、芯につかわれているからというわけでなく、本当にひょいひょいとマッチの先から火が上がっているようでとっても絵になります。

「成熟の向こうから現れたその小路の終わりまで行き」
その路は、「成熟の向こう」からすでに始まり、その終わりまではやはり「成熟」というすごさ。友だちの家にたどり着くには、成熟が必要…

「孤独の花の方を向いて」「花のところまで二歩のところ」 なんて
孤独に陥らず、孤独という美しさを見つめる心をもったギリギリの距離。

「誠実に流れる空間の中で さらさらという音が聞こえるだろう」
きっとなによりも心地よく美しい音でしょう。 さらさら さらさら…

そうして たどり着いた先に「友だちのうち」があるわけでなくそこで再び尋ねるのです
「友だちのうちはどこ?」と。

旅人が指し示す場所で私は一人でぼぅと立ち続けてしまいそうな気もします。
ひな鳥を捕まえている子供を見上げながら、その子に問うのを忘れて見続けてしまいそうです…

「ともだちの家はどこ?」というフレーズが題名にくるとすんなりくる詩ですが、この詩の題名は「住所」。「あれ?」というつっかかりができます。それがまたひとつの魅力なのですが、日本語では
「住所」は、「住む所」の意です。

「友だちの家はどこ?」と探しながら自分の住む場所、居場所を探しているのかしら?と、想像が膨らみます。ペルシャ語では、他の意もあるのですかね?

最後になりましたが、こちらの詩はイラン映画の巨匠アッバスキアロスタミ作「友だちのうちはどこ?」にインスピレーションを与えた作とされているようです。
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by salamx2 | 2009-07-03 09:15 | 詩のこころ | Comments(0)

緑から緑へ


僕はこの暗闇の中で
一匹の輝く子羊を想う
そいつは 僕の悲しみの草を食べにやってくる。

僕はこの暗闇のなかで
僕の濡れた両腕を
降りしきる雨の中に見つめている

それは 人類の最初の祈りを濡らした雨だ。

僕はこの暗闇のなかで
古の草原に向かって 扉を開いた
神話の壁に見た金色に向かって。

僕はこの暗闇の中で
無数の根を見た

そして芽吹き始めた死のいばらの草を 僕は
水の名で呼んだ。

ソホラーブ・セペフリー(前田君江訳)現代イラン詩集より

「緑から緑へ」
希望を見いだしているような それにしては静かすぎるような気がしますが、光が僕のこの暗闇の中にも常にさしこんでいるようなイメージを受けなす。暗闇と対比するように「輝く」や「祈り」「金色」「芽吹き始めた」なんて言葉が出てくるからそう、感じるのかもしれません。

「僕の悲しみの草を食べにやってくる。」
好きな一文です。
どんどん食べてあげておくれよと、想わずにいられません。

「そして芽吹き始めた死のいばらの草を 僕は
水の名で呼んだ。」

最後のこの部分を何度も噛み締めてしまいます。何か、わかるようなわからないようないろんな想像をしてしまうのです。

なぜ、「芽吹き始めた死のいばら」なのか?暗闇の中でそのいばらが僕を覆ってしまうのか?
そしてそれを「水の名」で呼ぶなんて、どこか悲しみに満ちているのに心の中に「悲しみ」ではなくて、軽やかさを残してくれるのがなんとも魅力的な一遍です。
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by salamx2 | 2009-06-27 11:32 | 詩のこころ | Comments(4)